内山聖 先生
魚沼基幹病院長
(平成26年7月31日インタビュー)
穏やかで優しい笑顔。内山:聖先生に憧れて小児科医になる医師は数多い。 平成27年6月に開院予定の魚沼基幹病院長 内山:聖先生の素顔に迫るインタビュー! 魚沼基幹病院への熱い想いを語っていただきました。
「世界で一番古い英語の医学書」!
そちらの本は?(先生のお手元の本。)
内山:英語で書かれたものとしては世界で一番古い『小児科教科書』の復刻版です。今からおよそ460年前に出版されました。 この本に書かれていて、現在でも多少通じる治療は「はしか」くらい。温かくして、サフランや温かいミルクを飲ませる‥。循環管理と水分補給ですね。合併症治療のペニシリン、さらにワクチンという歴史に残る発見、発明までの400年、あるいはこの本が出版される何百年以上も前から、はしかの治療はまったく進歩していなかったわけです。
そう考えると今の医学は随分進歩したと言えるのでしょうか
内山:今の医学はこれまでで最高の医学。この460年前の教科書は、現在、何の役にも立ちません。でも、これから400年、500年たった時、今の医学に対する評価は、460年前の教科書と同じだと思います。我々が最高の医療を提供していると言っても、500年後には「何だ、あの頃‥。」と言われるのがオチ。でも、それが医学の進歩の証明なんですよね。
世界で一番古い「英語小児科教科書」復刻版
医学は進歩し続けるということですね
内山:研修医の皆さんは、「最新、最高の医学を学ぶ」ために、日々頑張っておられることと思います。そんな中で、今の医学は決してベストではない。500年後からみたらワーストな医学。もっと良くなる方法が必ずある。ただ単にこの薬を飲めば治るとか、切れば治るというのではなく、常に本質や病態を考える習慣を身につけて欲しいと思います。 1人の天才、一つの偶然等から、エポックメイキングな発明や発見があり、高い壁を超える度に、医学は飛躍的に進歩してきました。しかし、その天才は時空を超えて忽然と現れたのではなく、背景にドラえもんの「こんな治療法があったらいいな」みたいな、大勢の願いがあったと思うのです。 時代の受け入れ準備が整い、世界中のみんなの願いが一点に集中した時、歴史を変える発見、発明が生まれる。そのように思っています。医学の歴史に関わる人が、県内で研修している医師の中から生まれてきて欲しいなと願っています。また、そこまで行かなくても、病態や本質を考えた上で出てきた願いは極めて貴重です。
医学部への進学は父のすすめと目標となる先輩!
医師になられた理由やいきさつをお聞かせください
内山:実は一番苦手な質問なんです(笑)。 中学は、いまは過疎のため廃校となった田舎の中学校でしたが、団塊世代でしたから同級生は160人と結構いました。でも、貧しい時代と地域で、3分の2が中学校卒業後、集団就職で上野行きの列車に乗り、大学に行くのは、ほんの1人か2人‥でした。 そんな時に、3年上の先輩が、「僕は将来、外交官になる!君もついて来い!」と言ってくれた。その頃は、外国に行けて楽しそう位の考えしかなかったのですが、以来、ずっとその先輩が目標であり、ライバルでした。彼は大学卒業と同時に外務省の試験に受かり、最後はオーストラリア大使を務めました。私は、外交官になるまでの過程がどんなに難しいかもわからずに、ただ「外交官になる!」と宣言して、中学3年生のとき突然に猛勉強を始めました。それまでは宿題すらやったことがなく、しょっちゅう先生に立たされていましたから、周りがびっくりしたようです(笑)。 先月、中学時代の恩師に何十年ぶりにお会いしたら、最初にこの話が出てきました(笑)。
最初は、外交官を目指されていたのですね。それでは、医師になろうと思ったきっかけは
内山:高校3年生のとき、新潟大学に脳研究所が出来ると聞いた父親が、「おまえの性格からいって、脳研究所で学問に励むのも良いのではないか」と勧めてくれたのです。 新聞を読むと、椿忠雄先生という学問だけでなく人格も優れた方が神経内科教授として東京から来られるという。あっさり新潟大学医学部神経内科に方向転換(笑)。後で聞くと私を地元においておきたいための一つの方策だったみたいですけれども。 ある意味、よく言えば純粋、悪く言えば単純なんですね、私は。だから動機があるようで、まったく無くて‥。 ですから、教授として医学部入試で面接官を務めた時も、医師を目指した動機はあまり重視しなかった(笑)。 ただ、初志を貫徹した先輩は、半世紀以上たった今でも私を奮い立たせてくれる存在です。
どんな医学生でしたか
内山:再試験にならない程度の勉強しか、しなかった。 目標があるようで無いようなかたちで医学部に進学したこと、それに加えて、医学部の勉強や授業が、こんなことを言ったら失礼だけれど、まったく、つまらなかった。試験前になると、仲の良い友達が詳しく書かれたノートを貸してくれて‥(笑)。 教授になってからは、学生時代の裏返しで、学生がぜひ受けたいと思う魅力的な授業を心掛けました。私の授業に出席しない学生は可哀そうと思うくらいの意気込みで、講義の準備をしましたね。 また、入学後に目標を見失った学生には、つい手を差し伸べたし、部活動に力を注ぐあまり勉強しなくなった学生にはエールを送りました。最近は、将来の目標をしっかり持った学生が多くなりました。感心します。
医師になられてからはいかがでしたか
内山:中学の先輩の後に続くのは、現実には難しかったと思いますが、敵前逃亡のようなモヤモヤがずっと続いていました。そのモヤモヤが吹っ切れたのは、卒業して10年後の昭和58年、ロンドン大学小児病院に留学した時です。 そこの若い医師が、一人の例外もなく、よく働き、勉強をし、すごく力があって‥。それでいて、病院の雇用契約は1年から2年、その後は再び高い倍率の試験を受けて別の病院を探さないといけないシステムで。だからみんな必死です。 私のそれまでの生ぬるい考えや行動が恥ずかしくなりました。私と同年代のL医師の優秀さもカルチャーショックでした。 あの時の彼の業績は30年たった今でも世界の臨床の現場に残っています。帰国後、医局長が「内山先生が以前の内山先生でなくなった。すっかり変わった」と他の人に言っているのを耳にしましたが、自分でもすべての点で変わったと思いました。 留学以降は、医師になったこと、偶然に小児科医になったことを一度も後悔することなく、臨床や研究にのめり込みました。小児科はとても魅力的で、奥が深い。でも、どこの科も自分のモチベーション次第で必ず面白くなるはずです。科の選択で迷う必要はないと思いますよ。
先生にとってロンドン大学小児病院に行かれたことが、ターニングポイントになったんですね
内山:まったくその通りです。それから新潟大学の教授になるまでの10年間、診療の合間に実験をし、家に帰ってからは論文を書いて‥寝食を惜しんで仕事をしました。実験をしないことには学会発表や論文のデータがないし、もっともそれよりも、新しい知見が次々に出るのが楽しかった。大量に検体が入った時は、二晩を続けて徹夜で実験をしたこともあります。 教授になってから、さすがに試験管は振りませんでしたが、勉強は続けました。私は小児科の中でも腎臓病と高血圧が専門なのですが、自分の勉強になるから、原稿依頼があれば、それこそ新生児から神経まで、分野にこだわることなく必ず引き受けました。400字詰め20枚程度の依頼原稿を多いときには毎週1編くらいのペースで書きましたね。常に新しい知見を発信したいから、ファイルしてある千編近くの文献に加えて、その都度、最新の英文論文10編以上に目を通してから原稿にとりかかりました。一編ずつ書いていたら飽きるし、締め切りにも遅れるので、何本かの違う分野の原稿を同時進行していました。 科学研究費も基盤AやB2件をはじめ、四半世紀にわたり代表でとり続けました。
内山先生の背中をみて・・・
三人のお子様も医師でいらっしゃると伺いましたが
内山:長女と長男が小児科医で、次女が循環器科内科医に‥。 でも今は、長女はある大学の教職に就いていますし、長男も研究者として、10年近く海外にいます。 長男は、兄妹の中でも臨床医、特に小児科医に向いていると思うのですが‥。「そろそろ帰って来いよ。魚沼基幹病院に来いよ!」なんて半分本気で言っているんだけれど(笑)。 でも、それぞれ自分たちの人生だから私は一切口出しをしてこなかったし、これからもしない。 医学部進学、科の選択、その後の人生、すべて本人たちに任せています。傍から見ていて、もどかしいところもいっぱいありますが・・・。
お休みの日の過ごし方をお聞かせいただけますか
内山:医学部在任中はとにかく忙しくて、土曜、日曜の2日間とも空くなんてことは年末の2,3回しかなかった。最近になって人間的な生活を送っています(笑)。もっとも、何をもって人間的生活というのかな(笑)。 身体を動かすことが好きなので2ヶ月に一回くらい友達とゴルフに行ったり、これまで家内と出かける機会が少なかったので、一緒に旅行をしたりするようになりましたね。 あと、今年、庭に初めてナスやキュウリの苗を植えて、たった2本ずつですが‥愛しいですね~!水をやりながら話しかけています(笑)。カラス対策で、紐を張ったり、キラキラ光るCDをぶら下げたり、賑やかですよ~。 医学部在任中も楽しかったけど、今の生活はまったく別の楽しさですね。基幹病院のことを考えるのも楽しいですしね。
研修医時代の思い出と劇的な出来事
研修医時代のエピソードがありましたらお聞かせください
内山:医師になった数か月後、K君という4歳の男の子を受け持ちました。その時代の医療レベルでは、ほとんどが1年以内に亡くなる病気でしたが、11歳までがんばってくれました。 私と話をするのが楽しみだったようで、毎日もっと話がしたいと言う。研究室から話ができるようにトランシーバーを買ってきました。しかし、薄給のなかから一番安いのを買ったものだから、なかなか電波が通じない。少しずつ近づいて、やっと通じたのが病室の入り口(笑)。 「よし!それなら今度は、直接通じる糸電話だ!」と、別棟の研究室と病室を糸でつなごうとしたけれど、途中、立ち木にさえぎられてうまくいかない(笑)。 7年間、入退院を繰り返したので、たくさんの思い出が残りましたね‥。ただ、100%助からないと解っていながら、延命したことが果たして良かったのか、残された家族は思い出が増えたことで余計に辛かったのではないか、4歳の時点でそのまま逝った方がよかったのかも‥医師としてどうあるべきだったのか、その後も繰り返し自らに問いかけました‥。 それから30年たったある日、K君の妹という女性が子どもを連れて、私の外来に来たのです。「この子も当時の兄と同じ4歳になりました。同じ病気がないか心配で。」K君に似た利発な子どもで、検査の必要はありませんでした。 診察後、何年もお兄さんを頑張らせたことが、逆に悪いことをしてしまったのではないか‥という私の長年の思いを恐る恐る伝えたところ、「7年間、兄を生かしてもらったおかげで、幼かった私も兄との楽しい思い出を作ることが出来ました。たくさんの思い出ができ、家族みんなが感謝しています。」さまざまな思いが交錯し、思わず目頭が熱くなりました。
全国的にも県内においても小児科医が不足していると言われていますが、どのように思われますか
内山:そうですね。新潟県の小児科医師数は人口あたり全国で41番目です。地方としては人口が比較的多いため、数字的には少ないですが、大都市圏を除けば、県内の小児科医師数は全国でもトップクラスだと思います。 また、私が在任中、80数名の医局員が国内、海外留学を経験し、その結果、県内の小児医療のレベルは全国的に高い評価を受けています。さらに、小児科に限りませんが、県内すべての病院の小児科や小児科診療所がface to faceでつながっています。このような都道府県は、日本全国、新潟県だけです。 「小児科医師数は全国で下から7番目」という話に、一番びっくりするのは他県の小児科の先生方で、同じくらいに県内小児科医、そして私もびっくりしています(笑)。病院の集約化が進んでいて、小児科医が働く環境もずいぶんよくなりましたね。
医学生や研修医の皆さんにメッセージはありますでしょうか
内山:医師という職業は極めて崇高で、患者さんに喜んでもらえるやりがいのある仕事です。 勉強すればするほど研究も診療も楽しくなり、日常の診療レベルも上がります。こんなに楽しく仕事が出来て、世の中の人に喜んでもらえる職業は、そう多くないと思います。 とはいえ、医師という職業に限らず、みんなが必ずしも一直線に自分の目標にたどり着けるわけではなく、さまざまな挫折や失敗もあると思います。しかし、前進する限り、自分で失敗と思ったことも、いつか必ず血となり肉となり、道は開けます。万事塞翁が馬です。結果よりもプロセスを大事にして欲しい。 あとは、良い先輩、良い同僚、良い後輩と巡り会い、学生時代の仲間も含めて、まわりの人を大切にして欲しい。また、驕らず常に謙虚に医学と向き合って欲しいと思います。
魚沼基幹病院への熱い想い
魚沼基幹病院に海外から来られる先生に期待することをお聞かせください
内山:魚沼地域医療教育センター総合診療科教授に内定した石山貴章先生ですね。 私自身、新潟県内の研修体制はすばらしいと、正直、思います。 ただ、体制がしっかりしているがために、導入が難しい課題もあるようです。石山先生には新潟県内の研修プログラムを補完するようなプログラムを構築し、魚沼基幹病院で実践してもらいたい。海外で身につけた知識や技術、素養の全てを前面に出して、若い人たちのモチベーションをあげるよう刺激を与え、教育して欲しい。 そして、地域に根差した全国モデルになるような総合診療を伸びやかに展開してほしいと期待しています。 一方で、彼以上に臨床や研究の実績を積み、教育にも熱心な医師が数多く集まってくれます。「患者さんのため、そして自らのために充実した人生を送りたい」という若い医師の夢をかなえるため、石山先生をはじめ多くの皆さんの協力を得て、様々な取組を実現するとともに、全国の研修医にも伝えていきたいと願っています。
魚沼基幹病院が来年6月に開院となりますが、病院の特徴、PRがありましたらお願いします
内山:魚沼地域の各病院が機能分担をしたうえで連携を図り、地域が一つの病院となります。その中で、魚沼基幹病院は救急医療と高度医療を担当し、『地域で活躍できる総合診療医』と『総合診療医マインドをもった専門医』を育成します。 この一環として、地域全体の患者データを魚沼・まい(米)ネットで共有します。かかりつけ医や各病院で受けた検査、画像、処方のデータが共有されるので、例えば救急で魚沼基幹病院に初めて搬送された患者でも、直ちにこれまでの経過を把握し、適切な対応をとることができます。また、基幹病院ではドクター全員にタブレット端末を配布。自宅や出張先でカルテを参照し、患者掲示板や検査結果を見ることができますし、ToDoメッセージを確認できます。また、未承認カルテ・オーダや未承認サマリを確認し、承認することができます。これだけさまざまな機能を院外で利用できるのは、わが国初の試みと聞いています。 看護師は電子カルテと直結したiPhoneを胸ポケットに入れ、院内通話のほか、ベッドサイドでバイタルデータの入力、カメラで患者のリストバンドと輸液ボトルのバーコードの一確認などを行います。 ただ、このような情報ツールはあくまで手段であり、病院をあげて若い医師やメディカルスタッフに対して五感を駆使した教育を行います。良い医師を育てる!この気持ちは全国どこの病院にも負けないよう、プライドをもってやっていきます。皆さん、魚沼道場の門をたたいてください。
(所属等は執筆時現在です。)